【エネルギー政策】灯りをつける責任──脱炭素と現実の板挟み

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【エネルギー政策】灯りをつける責任──脱炭素と現実の板挟み

第1章:カミさんの「電気代、また上がったわよ!」

いやぁ〜、うちのカミさんがね、電気代の請求書を見て「また上がってるじゃない!」って、怒ってましたよ。「SDGsってやつのせい?」と聞かれて、返す言葉が見つからない。

そのくせテレビで「脱炭素社会の実現を目指して」とか流れると、「それは大事よねぇ」と言うんですな。いやいや、これがまた“言葉と生活”の分断ってやつでして……。

第2章:「CO2が悪者」って、ほんとにそうなのか?

まずは、そもそもの話ですよ。「CO2が増えて地球が温暖化している」と言われてますが、どこまでが科学的に確定してるのか。

気象データの多くは過去数百年のもので、地球の長い歴史の中じゃ“誤差”の範囲とも言われる。気温上昇も「2100年に2度」だの「4度」だの、幅広くて定かじゃない。仮に日本がCO2排出をゼロにしても、世界の3%程度。焼け石に水、とはまさにこのことです。

一方の中国は、CO2排出の世界最大国。その中国が石炭火力をガンガン建ててる横で、日本がエアコンを我慢している──これ、釣り合ってると思いますか?

第3章:再エネは“理想”か“幻想”か?

再生可能エネルギー、特に太陽光や風力は“理想の電源”とされています。でもね、私が一番言いたいのはここ。「再エネには必ず“バックアップ”が要る」という事実が、まるで語られていないということですよ。

太陽が照らなければ、風が吹かなければ、電気は出ません。その“出ないとき”のために、火力発電や原発が常に“スタンバイ”している。つまり、コストは“二重払い”。

そしてその電気代が、じわじわと家計を締めつけていく。うちのカミさん、「再エネって高いのねぇ」とため息ついてましたが、それもそのはず。“理想”を支えるには、“現実”という影武者がいつもついて回るんですよ。

第4章:原発タブーと現実逃避

原子力発電の再稼働についても、議論が避けられている現実があります。確かに福島の事故は記憶に新しい。でも、それだけを理由に「議論すらしない」というのは、あまりに極端じゃありませんかね。

“脱炭素”を掲げて、原発も再稼働せず、火力も減らして、なおかつ再エネ一本足でやっていこう──そんな魔法のような話、どこにあるんですか。

カミさんも、「停電は困るのよねぇ」と言ってましたが、それを防ぐためには“選択と覚悟”が要るんです。「ノー原発、ノー火力、でも電気は安定して安く」──そりゃ虫が良すぎるってもんですよ。

第5章:理念の政治と“補助金中毒”

最近の政治、耳障りのいい言葉ばかりが飛び交う。「クリーンエネルギー」「グリーン成長」「脱炭素支援枠」──どれも響きはいいけど、実態は補助金と利権の温床です。

太陽光の設置に補助金がつき、その業者と政治家が結びつき、政策ができあがる。“地球に優しい”を言い訳に、予算が湯水のように使われていく。これ、まさに“SDGs利権”ってやつですよ。

しかもそれが“正義”の名のもとに動くから、誰も文句を言えない。少しでも疑問を呈せば、「地球に冷たい人」扱い。いやいや、地球さんからしたら、日本の努力なんて小さすぎて、なにあたふたやってんの?てなもんですよ。

むしろ、地中に埋まってしまった生物の死骸からできた資源に火をつけて、CO2として大気中に還元したら、むしろ自然は喜ぶんじゃないですかね。

第6章:灯りをともす“責任”とは

結局、エネルギー政策ってのは、“誰が灯りをともすか”という覚悟の問題なんですよ。

安く、安全に、安定して──その3つをどうやって両立させるか。現実と理想のバランスを、政治がどうとるか。これは一部の専門家や業界に丸投げする話じゃありません。

うちのカミさんが言う「電気代、また上がったわよ!」のひと言には、生活の不安、政治への苛立ち、そして未来への問いが詰まってる。

で灯りを守ることこそ、本当の“政治の仕事”なんじゃないですかねぇ。

私ゃ思うんです。「脱炭素」は本当に必要なのか。幻想を満足させる手段のひとつなのかもしれない。少なくとも、唯一絶対のゴールじゃない。理想と現実の間にある幻想をあぶりだし、本当の灯りをともす。それが政治の責任ってもんじゃぁないでしょうか。


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