第1章:カミさんの靖国参拝と“ひどい戦争”発言
ふと思い出したんですがねぇ、去年の夏、うちのカミさんと靖国神社の前を通りかかったときのことです。「英霊には感謝しないとねぇ」と手を合わせながらも、家に帰ってテレビを見たら「日本って戦争でひどいことしたのよね…」としんみりしてたんですよ。
私ゃねぇ、そのギャップがずっと気になってるんですよ。感謝しつつ、謝罪する。この矛盾、いや二面性とでも言いましょうか。それが今の日本人の歴史観そのものなんじゃないかと。
第2章:加害と被害、その両方を直視するということ
日本は「戦争を始めた国」でもあり、「空襲と原爆に苦しんだ国」でもある。どっちが本当かって? どっちも本当なんですよ。
私の古い知り合いにね、沖縄出身の方がいましてね。「家族は戦争でみんな失った」と話してました。でも彼は、「戦争の責任を他人事にするな」とも言ってた。つまり、自分たちが“された側”であると同時に、“した側”でもあるって、わかってたんですな。
でも、今の日本じゃどうです?「加害を言いすぎるな」「被害を強調しすぎるな」って、どっちかに偏った声ばかりが大きくなる。まるで、歴史に片目だけで向き合おうとしてるみたいなんですよ。
第3章:記憶と風化、そして教育の責任
うちの近所の子どもがね、「戦争って何?」って聞いてきたことがありましたよ。うちのカミさん、「えっと…昔、いろいろあったのよ」とだけ答えてたんですよ。いろいろって、何なんですかねぇ。
戦後すでに80年近く。生き証人も減り、戦争の記憶は“体験”から“情報”へと変わってきている。ここで問われるのが教育の役割ですよ。子どもたちが何を知り、何を信じるか。その入り口が曖昧なら、その先の判断も曖昧になっちまう。
教科書検定や授業内容の論争がよくニュースになりますが、私に言わせりゃ“正解”を押しつける前に、“問い”をちゃんと教えるべきなんじゃないかと思うんです。「なぜあの戦争は起きたのか」「なぜあんな結果になったのか」「どうすれば避けられたのか」──そういう疑問を持たせるのが、本当の教育ってもんじゃありませんかね。
第4章:「過去を見つめる」は「現在を見つめる」こと
カミさんは、韓流ドラマの戦時中の描写を観て「なんか、胸が痛くなるわねぇ」と言ってましたが、その翌日には「やっぱり日本ってすごい国よねぇ、大谷翔平がいるもん!」と誇らしげ。これがまた、不思議な話でして。
“誇り”と“反省”は矛盾するものじゃないと思うんですよ。むしろ、きちんと反省できる国こそ、本当の誇りを持てるんじゃないか。都合のいいときだけ「誇れる日本」と言い、都合が悪くなると「昔のことだから」で済ませる。そんな姿勢じゃ、子どもたちに何も伝わらない。
過去を見つめるってのは、現在の自分を見つめることでもあるんです。「今の価値観」で過去を断罪することも、「昔の常識」で今を語ることも、どちらも片手落ち。大事なのは、その両者の間に橋をかけることなんですよ。
第5章:ぼやきながら、記憶を受け継ぐ
歴史ってのは、誰か一人が決めるもんじゃない。たくさんの人の“記憶”と“解釈”が重なりあってできるもんです。だからこそ、いろんな声があっていい。でも、その声を消し合ってしまったら意味がない。
私は思うんですよ。「あの戦争を忘れちゃいけない」って言葉を、もっと具体的にしていかないといけない。「何を忘れないのか」「なぜ忘れちゃいけないのか」──その問いに、毎年夏だけじゃなく、日々向き合うこと。
うちのカミさんが「戦争は悲しいわねぇ」と言うとき、私はそっと手を合わせます。願わくば、その“悲しさ”が“無関心”に変わらぬように。そしてその想いが、次の世代にも届くように。