僕の周りにいる What a wonderful! な友達を紹介していこうというシリーズ。
記念すべき第1号は僕の偉大な友人「マンボ松本」。
初めて会ったのはいつだろう?
はっきり覚えていないのだが、20年以上前のことだ。
場所は京都の老舗ライブハウス「拾得」。
当時ブルースバンドをやっていた僕は、マンボ松本在する「Kingstone Mines」と対バンでご一緒させてもらった。その時の鍵盤奏者だったのが、マンボ松本だ。
Kingstone Minesというのは僕達ブルーズ小僧にとっての憧れシカゴにある有名ライブハウスの名称で、その名前を堂々とバンド名につけているだけでも僕らは小躍りするほどワクワクしたのだが、実際のライブ演奏では大踊りしてしまうほどテンション上がりまくった。もう、そりゃぁカッコいいのなんのって。
そんなKingstone Minesのメンバーと本番前に「拾得」の二階にある楽屋で、緊張しながらお喋りし「頑張りやぁ〜、楽しくいこな〜」と優しく声かけてもらったことを思い出す。
あの体験がなかったら、僕は今頃こうしてカフェをやり、ライブを企画して店で催し、そしてブログを書いたりするような人生は歩んでいないだろうな。
そんなスペシャルな場所が「拾得」の2階だった。そこにマンボ松本がいた。
多分、拾得では2度か3度ほど一緒にライブをさせてもらったように思う。
実は、そんな素敵な出会いなのであるが、僕とマンボ松本の交流が始まるのはもっともっと後のことである。
なぜなら、音楽に生きる覚悟を早々にしたマンボ松本と、覚悟できなかった僕では立つステージが全く違ったのだ。
音楽に人生をかける覚悟をしたマンボ松本は、「大西ユカリと新世界」に参加しチャンスを掴んだ。
スター街道を歩みつつあったのだ。
バンド活動を続けながらもサラリーマンをしていた僕は、マンボ松本がテレビやラジオに出演して演奏している姿を見て、誇らしかったし、羨ましかった。
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昨日会った、ツインズの小竹直さんから、この動画で演奏している曲の日本語詩をつけたのは、なんと拾得のテリーさんだと聞いた。感慨無量。
参照 Wiki (2015/4/19 追記)
だけど僕はこの頃のマンボ松本を、眩しすぎて直視できなかった。
この当時、僕は鬱のドン底にいたのだ。
時は流れ、僕とマンボ松本は「再会」した。
場所は僕が、音楽に恩返しをするという覚悟で開いた「Cafe Jinta」だ。
京都の北の端にある岩倉で、鬱あがりの僕がオープンした小さな店には、あるスペシャルなキーパーソンのおかげで、京都のスゴいミュージシャンが多く訪れ、とんでもないかっこいいライブを毎回披露してくれた。
そのキーパーソンのことは、このシリーズでまたご紹介したいと思う。
兎にも角にも、市川芳枝・山口武・田中晴之・The Twins・Tommy・鬼塚大我・カサスリム・奥田聡子・花田えみ・平野翔子…ベテランから今活躍華やかな若手まで、それはそれは豪華な京都の音楽シーンを彩るミュージシャンが演奏をしに来てくれた。
その中に、マンボ松本はいた。
いや、いたというより、マンボ松本が出演するようになったから集まったのかもしれない。
マンボ松本はJintaでの初ライブ(前開きボタンブルースバンドという小竹親・カサスリム・マンボ松本の3人の愉快なブルースバンド)以降、コーヒーをちょいちょい飲みに来た。
かぁちゃんも交えた3人で、コーヒーを飲みながら、色んなことを語り合った。
その会話には、なんとなくだが「急がんでエエやん、ボチボチいこ」という前提のようなものがあった。
にも関わらず、僕はカフェジンタを岩倉から烏丸三条に場所を移すことを決断した。
僕にしてみたら、人生の全てをかけた勝負の移転計画だった。
金融公庫への借り入れも信用最大限の申請で、これが却下されれば全てがパーになるギリギリの申請だった。
そんな金融公庫審査のOK通知連絡を受けた時、偶然にも店にいたのはマンボ松本だった。
僕が国金からの電話を切って結果を話した時、驚いたことにマンボ松本は両手を挙げて「ヤッター!!」と僕と家内以上に大喜びした。
マンボ松本はそういう男なのだ。
当時のマンボ松本は「大西ユカリと新世界」の活動を終え、ソロミュージシャンとして新たな活動を開始したところだった。
「拾得」で出会って以来、まったく異なる道を歩んだ僕とマンボ松本だったが、ある時からなんとも言えぬ不思議な気持ちの共有をするようになっていた。
気持ちの共有だけではない。
カフェジンタの一大事も共有した。
移転するためのカフェジンタ最終日、マンボ松本はフラっと店に来た。最終日だけあって、岩倉の片田舎にもかかわらず、Jintaを愛顧してくださったお客さんで満席。
僕のお願いでマンボ松本の突発ライブが始まった。
最高のライブだった。
僕の店での数あるライブの中でも特に忘れられないライブだ。
そんな最高の思い出を残して、岩倉から場所を変え烏丸三条でカフェジンタをオープンさせた。
オープン初日の夕方、3人の愉快なブルースマンが現れた。
前開きボタンブルースバンド(小竹親・カサスリム・マンボ松本)の面々だ。
3人のブルースマンは、僕と家内の他に誰もいないオープンしたてのカフェジンタで、ライブをしてくれた。
なんという贅沢なんだろう。
僕が感慨に耽っていると、当時隣にあった美容院「SOHO」の社長が店に入ってきた。
店を出して間なしの僕は「あぁ、音が迷惑やったのかも」と焦ったが、不安はすぐに消えた。
社長「マンボやないの〜」
え?どいうこと?
実はこの「SOHO」の社長さん、大西ユカリさんと親しい付き合いで、「大西ユカリと新世界」のバンドメンバーとも交流があったのだ。
飲食店などでライブをする場合、近隣住民やお店の理解は絶対に不可欠なのだが、ここでもマンボ松本はその人柄で僕達を支えてくれた。
マンボ松本とは、それ以降も、音楽に限らず色んなことを共有した。
でも、実際は共有したというより、影響を受けた。
そう、僕はマンボ松本にものすごく大きな影響を受けたと思う。
そして、2011年6月1日 マンボ松本はツアー先で急性心不全で逝去した。
突然の事だった。
マンボ松本はツアーに出る前に、僕に2枚のCDを手渡して旅にでた。
「ジンマス、たぶんこんなん好きやろと思って、持ってきたよ。」
あれから、もうすぐ4年。
今でも時折聴いては、マンボ松本の事を思い出す。
上のほうから見てるかな?
一日中ゴロンゴロンとやってるかい?
僕は相変わらず一日中働いてるわ。
あぁ、ちょっと長く書きすぎやな…。
でも読み返して編集するのもなんか違う気がするので、この記事は初書きのままアップすることにします。
最後にマンボ流でブログを終わろうかな。
ほなほな、またに!