アメリカでドラマ撮影をしているカメラマンの友人から聞いた話。
「アメリカのドラマは、あそこまで政治問題に切り込んだ内容を描いていて、よく政府の干渉がないもんだね?」と質問した。
日本ではあのように現実の政治問題をストレートに表現するようなものはないように思うが、アメリカではそのようなことが当たり前だからだ。
知らなかったのはボクくらいなのかもしれないけど、アメリカのドラマの制作には公然とCIAが協力をしているそうだ。
つまり政府の正義に基づいた価値観でドラマが制作され、それを世界中に向けて配信し続けているということだ。
偏った正義の暴走は暴力を生み、異なる正義の衝突は戦争という悲劇を生む。
正義の扱いについて考えた時、人はまったく未熟なままだと思わざるを得ない。
ひと握りの賢人賢者が成熟していようとも争いを絶やすことはできない。
偉大な指導者が成熟への道を示せたとしても、蔓延った悪徳が大きく立ちはだかり道を阻むだろう。
我々のような圧倒的大多数のごく普通人其々が、正義の扱いに謙虚且つ真摯になってこそ、ようやく世界の平和が成るんだろうと思う。
それでもなお、我々の内にある煩欲と傲慢は腐敗陳腐という自然の理に従い、すぐさま切り崩しにかかるだろう。それほどに、平和の実現は難しい。
しかし、世界永遠の平和というのは夢ではない。遥か遠い気高い山の頂上にあるのだとつくづく思うが、遥か遠いからと言って諦めるものではないのは、言うまでもないことである。
どの道をゆけば世界の平和に近づけるのか。。。
歴史を、特定の立場からみた解釈に依拠せず、真実を静かに確認することからはじめなければいけないというのが、ボクの考え。
正義は史実を記してきた側だけにあるのではない。
滅ぼされた側にも正義はあったという事に目をむければ、今まで見えなかったものが見えてくる。
前途は多難であり、現実は理想とははるかにかけ離れた状態にある。
それでも理想に向かって歩まなければならない。
正義を正そうとすれば、たちまちそれぞれの論理で銃剣を構える陣営に腕を左右に引っ張られ、無用の悲劇を生むことになる。
先ごろシリアで二人の気概ある邦人の命が失われた。
いろいろ言われてはいるが、命を賭してでも正義を全うしたいという意志が行動を駆り立て、不幸な結末を生んだことに違いはない。
自己責任を論ずるのか、報復の口実にするのか、英雄に祀り上げ事実から目を逸らすのか、政権批判の口実とするのか…。
一方の正義が、他方の邪悪となり、衝突を生み悲劇に至る事実を、幾度証明すれば人は気づくのだろうか。
人類として、正義ではこれ以上平和に向けての歩みを前には進められないことを知り、謙虚に正義を内に秘め、各々が穏やかに互いの道を認め合うべき時が来ているのだと思う。